コロナ禍での人間の衝動と心理『命を捨てる人』

スポンサーリンク

人間というのは、言葉や感情に左右されやすい。

新型コロナウイルスの感染者数が減った時には、人はもう大丈夫だと思っていた。

政府は、経済を優先した。

それにつられ、人は動き始める。

徹底した感染対策。

この言葉を何度聞いたことだろうか。

専門家、政府、国民に分かるはずのないことだ。

誰一人として、完璧な感染対策なんて分かるはずがない。

対策に関したは、

マスク、消毒液、アクリル板、ソーシャルディスタンス、PCR検査。

このようなことしかアイデアがない。

これしか分からないから、何も言いようがない。

屋内、屋外であろうと、出歩けば感染のリスクがあることを積極的に言わない。

外なら大丈夫だ、と言い張る人までいる。

そして、外出自粛の緩和を行う。

その後、たくさんの人が当たり前のように密を作り電車などの公共交通機関を利用した。

密集地域で遊ぶ人やソーシャルディスタンスという100%安全とは言えない方法を信じてお店には、行列を作った。

不安に感じる人もいただろうが、楽しんでいる時には、感染してしまうことなんて忘れてしまう。

今もいるように、油断して、甘く見ていた人は少なからずいるだろう。

居酒屋でお酒を飲み、肩を組みながら歩いている人。

そして、クラスターが発生した。

自分だけが楽しければそれで満足なのだろうか。

他人の気持ちや医療従事者への配慮は皆無なのだろうか。

対策を頑張っていて、感染してしまった人がいれば、娯楽を楽しんで感染した人もいる。

同じ人が2度も感染してる情報さえある。

国は経済を優先し、キャンペーンで旅行を推奨する。

すると、必然的に旅行を楽しもうとする人がいる。

コロナウイルスを全く気にしない人がいて、

経済だけに目がいってします。

借金して事業をスタートし、厳しい時代があった。

メディアや動画配信者が感染拡大させない対策の努力をやめ、インタビューをしたり、至近距離で会話をする。

儲かることが当たり前のようになっている。

自分たちの地位や名声だけなのか。

お金だけに目がくらみ、

感染者が増えて、人が亡くなっていく。

命とは、なんなのだろうとすら感じる。

リスクがあるのにそこへ飛び込んでゆく。

今という時間だけが大切なのだろうか。

一方で、長期間巣篭もり状態で、この困難に耐え、感染を増やさない協力と努力を自分なりにしている人がいること。

時間が経つにつれて、また感染者数が増えた。

第2波と言われるものが来ているとニュースで報道されれば、人は焦った。

それでも密集地域へ出かける人がいた。

状況が悪くなれば、世の中の不満や文句を言う。

楽しもうとしていた人も便乗して、批判をするのだ。

こんな世の中だ。

また、感染者が減れば人は外出をするだろう。

そしてまた感染者が増えるのだ。

人間は、他人の行動を見て同じ動きをする。

他の人が大丈夫なら、自分も大丈夫という考えだ。

では、ワクチンや治療薬が見つかり、WHOがコロナウイルスの終息宣言がされたらどうだろうか。

終息宣言されたら、人は涙を流し喜ぶ。

まだ、感染者がいるかもしれない状況だとしても、

人に会いたいという気持ちが生まれ、この状況を乗り切ったという感情を分かち合う。

元の生活に戻り、外出をして、ショッピングを楽しんだり、すぐに旅行をしようとする人が出てくるだろう。

それは、ワクチンを打ってなかったとしてもだ。

安心で、安全な治療薬とワクチンが使える状態でもないのに、人間は、自由に動きたがる。

まるで何かに取り憑かれたかのように。

皆が自由や平和を望んでいるが、衝動は抑えられない。

身勝手な希望だけだ。

終息後も数ヶ月間、もしかすると数年間は、安全とは言えないが、

それを気にしないで娯楽を楽しむのだろう。

スポンサーリンク

コメントする